2026/6/11
【河野洋平さんと故三宅久之】
明け方に河野洋平さんの訃報に接しました。ご家族様には謹んで哀悼の意を表します。
私の実家と河野家とは深い縁がございました。
私の父は毎日新聞社に入社後に政治部配属された当時は吉田茂番。その後本格的に番記者となってハマったのが河野一郎さんでした。
父がちょうど28歳くらい、河野さんは60歳くらいで、それなりの年の差があったと思います。父の著作には「一年で600回くらい平塚と目黒に通い詰めた」と記されています。まさに夜討ち朝駆けを地で行っていたのだと思います。現代の記者と違って昔の番記者は政治家の私邸に上がり込んで情報をとるのを主としていました。
ある日、父は早稲田大学競走部に在籍していた河野洋平さんから財政的な窮状を告げられ、一郎さんに意を決して一言申し上げました。
「洋平さん、お金がなくて競走部のマネジャーとしてのやりくりが大変です。お小遣いをあげてやれませんか」と。
すると、一郎さん烈火のごとく「河野家のことに口出しするな」と。
そういうやりとりがあった後も、番記者としての三宅久之と河野一郎さんの関係は良好だったということ。農林水産大臣として日ソ漁業交渉でフルシチョフとやりあったクレムリンにも同行していましたし、オリンピック担当大臣として首都高速敷設等、豪腕をふるっていた際も密着していたそうです。
やがて、一郎さんが亡くなり、父のお供で未亡人のお見舞に平塚の私邸へお邪魔したことがあります。当時、幼稚園児のマコト君が、奥様からおやつと言われて差し出されたのが「焼ウニ海苔巻き」。ウクレアが大好物だったマコト君は鼻をつまんで海産物を飲み込んだのは苦い思い出です。
その後、洋平さんが自民党宏池会に入り頭角を現すも田中角栄さんに楯突き、新自由クラブを結成、ほどなくして自民党に復党する際も、ずっと三宅久之はテレビ番組やじうま新聞で河野洋平さんを叱咤激励していました。ちょうどその頃ですが、私の実兄の慶事には河野洋平ご夫妻に三宅家として大変お世話になりました。
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「関係が良好」、それは息子がそう思っていただけで、実際は違っていたのかもしれません。
サラリーマン時代の私が父にこんな話をしたことがあります。
「河野太郎さんって、どんな人なの?」
すると父は
「あ~彼は父親と違ってすごい優秀だね。洋平さんが体調を崩していた際に自分の臓器を提供するっていうので議員立法をしたり、なかなか見所のある政治家だよ。一郎さんに似ているな」と。
私はこの話を聞いたときに正直「?」でしたが、その後知識が増えるにつれて、父と河野洋平さんの関係は離れていったのかな、と思います。あくまでも推測ですが。
いずれにしろ、総理大臣になれなかった自民党総裁、河野洋平さんは89歳の天寿を全うされました。ご冥福をお祈りします。
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