2026/6/16
W杯で、日本代表のサポーターが試合後に客席のゴミを拾って帰る姿が、世界から称賛されています。
一方で、日本国内ではそれに対して、
「偽善だ」
「海外にいい顔をしているだけだ」
「目立ちたいだけだ」
みたいな声も出ることがあります。
でも、私は思うんです。
偽善で、何が悪いんだろう。
仮にそれが「人に見られたい」という気持ちから始まった行動だったとしても、結果として誰かの仕事が少し楽になる。会場が少しきれいになる。次に使う人が気持ちよく使える。
それなら、十分じゃないですか。
人の動機なんて、そんなにきれいなものばかりじゃありません。
褒められたい。
認められたい。
いい人だと思われたい。
自分がやった意味を感じたい。
そういう気持ちは、誰にだってあると思います。
でも、その少し不純な動機から生まれた行動で、誰かが助かるなら、それはもう立派な善だと思うんです。
むしろ私は、「偽善だ」と笑う空気の方が怖い。
誰かがゴミを拾う。
誰かが困っている人に声をかける。
誰かがちょっとだけ面倒なことを引き受ける。
そういう行動に対して、
「どうせ偽善でしょ」
「いい人アピールでしょ」
と言ってしまう社会になると、人はどんどん善いことをしにくくなります。
善意は、完璧でなくていい。
100点の純粋な善意じゃなくてもいい。
半分見栄でもいい。
少し自己満足でもいい。
誰かに褒められたい気持ちが混ざっていてもいい。
それでも、誰かの負担が減るなら。
誰かが少し救われるなら。
まちが少しきれいになるなら。
その行動には価値がある。
私自身も、できる範囲でゴミを拾うようにしています。
朝ランのついでに拾ったり、道端で気になったものを拾うこともある。もちろん、毎日完璧にできているわけではないけど、できる時に、できる範囲でやっているだけです。
これも、偽善かもしれません。
「市議会議員だから、いい人に見られたいんでしょ」
そう言われれば、そういう面がゼロだとは言い切れない。
でも、それでいいと思っています。
偽善上等。
だって、落ちていたゴミが一つ減る。
誰かが拾わなければ、そこに残り続けたかもしれないものがなくなる。
次に通る人が少しだけ嫌な気持ちにならずに済む。
それなら、偽善でもいい。
むしろ私は、偽善をもっと称賛していいと思っています。
完璧な善人だけが善いことをしていい社会なんて、息苦しすぎる。
立派な人だけが行動していい社会なんて、前に進まない。
不完全な人間が、不完全な動機のまま、それでも少しだけ誰かのために動く。
社会をよくしていくのは、きっとそういう小さな行動の積み重ねです。
だから私は、言いたい。
偽善でいい。
偽善上等。
誰かが助かるなら、それはもう善だ。
ゴミを拾う人を笑うより、
手を差し伸べる人を冷笑するより、
少しでもまちをよくしようとする人を「偽善だ」と切り捨てるより、
その行動によって助かる人がいるなら、まずは称賛すればいい。
私も、できる範囲でやります。
全部はできない。
完璧にもできない。
それでも、できることをやる。
偽善でもいいじゃないか。
思いっきり、偽善を称賛していこう。

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ホーム>政党・政治家>みさわ ひろと (ミサワ ヒロト)>偽善は悪なのか。ワールドカップのゴミ拾い批判に思うこと