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野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第8話 種を植える金

2026/7/13

 

その夜、和馬はアパートの床に、調べ上げた紙の束を、扇のように広げていた。

 地域(ちいき)未来(みらい)投資(とうし)促進法(そくしんほう)。

 爺が坂の上から投げて寄越した、たったひとつの手がかり。役所の端末では追えないところまで、和馬は深夜の図書館と、薄いもう一台の電話の向こうの資料で、骨格を掴んでいた。

 読み解くほどに、背筋がすっと冷たくなる。これは、ただの補助金制度ではなかった。市が握る金とは、流れる川そのものが、違うのだ。

 市の補助金は、市役所が握る。だから、川上の手綱で、いくらでも握り潰せる。だが、この法は違った。事業の計画を承認するのは、市ではない。県だ。県知事が判を押し、国が後ろ盾につく。税の控除。公庫の融資。そして――畑にできないはずの土地を、畑にしてしまう、農地転用の特例まで。

 市の堰の、外を通る水路。爺の言葉が寸分たがわず、ここにあった。

 和馬はひとつの行に、指を止めた。ただしこの水路には、関所がある。高い付加価値を生むこと。地域の事業者に、相当の経済効果を及ぼすこと。数字のはっきりした関門だ。

 和馬は、ひとり呟いた。「……万能ファームだけじゃ、通らない」

 十人か二十人の小さな畑の輪。朝市と子どもの土いじり。それは尊い。だが、この法が求める数字にはまるで足りない。野菜を売るだけでは、関所は越えられない。

 ではどうするか。和馬は、広げた紙の上に別の三枚を重ねて置いた。木金。山の木と、木質化。白金。石灰の、岩盤の土。紅金。その土が生む、葡萄とワイン。三枚が、一枚に重なった。

 ばらばらの夢は、関所を越えられない。だが、これを一本に束ねたら――流域の山を起こし、その木で街を木質化し、石灰の土に葡萄を植え、樽に詰めて世界へ出す。ひとつの大きな流れ、ひとつの「事業」として描けば。数字は、届くかもしれない。

 和馬は、薄い電話を握った。画面に、機関への短い文字を打ち込む。

 〈水路の名は、掴みました。法で、堰の外に出ます〉

 送信して待つ。返ってきたのは、いつもの感情のない一行ではなかった。

 ――急ぐな。その水路を、最初に通ろうとした男が、どうなったか。忘れるな。

 和馬の指が、止まった。最初に通ろうとした男。その意味を問い返す前に、画面の文字はすうっと消えた。

 翌々日の夜。駅裏の純喫茶、いちばん奥のテーブル。和馬が、紙の束を広げて説明を終えると、まさひろが低く口笛を吹いた。

「市を通さずに。県と国で押し切るってのか」

「市の補助金は、川上の手綱だ」和馬は頷いた。「でも、この法の事業計画を承認するのは、県知事だ。市役所が握り潰せない。税の控除も、公庫の融資も、ついてくる。畑にできない土地を、畑にする道まで、ある」

「葡萄を植える土地が要るもんね」シスコが、ぱっと顔を上げた。

「待ちな」

 低く、艶のある声が座を断ち切った。ゆきだった。長い脚を組み替え、金庫番の目がまっすぐ和馬に据わっている。

「金庫番として言わせてもらうよ、坊や。ここからは夢の話じゃない。銭の話だ」

 テーブルの温度が、一段下がった。

「葡萄を植えてワインになるまで、何年だい? 苗を植えて、実がなるまで三年、四年。まともなワインになるまで、さらに数年。その間、一円にもならない畑に、誰が金を注ぎ続ける?」ゆきは、指を一本ずつ折った。「畑を拓くのに、何千万。醸造所を建てりゃ、億だ。その借金を誰が背負う? 万能ファームのあの若い連中かい? 畑で食うや食わずの?」

 和馬は、答えなかった。ゆきの問いが正しいと、知っていたからだ。

「あんたの法だってさ」ゆきは、紙の一枚を爪で弾いた。「高い付加価値を生め、地域に経済効果を及ぼせって書いてある。野菜の朝市と数本の葡萄で、その数字が出るのかい? 出ないだろう。――きれいな絵に銭の裏付けがなきゃ、それはただの博打だ。あたしは、博打には乗らない」

 沈黙が、落ちた。

 原沢が、眼鏡を押し上げ低く言った。「……ゆきの言う通りだ。この法は、小さすぎる事業は、弾く。万能ファームだけじゃ関所を越えられない」

「だから――束ねる」

 和馬の声が、静かに座に落ちた。彼は三枚の紙をテーブルの中央で、一枚に重ねた。

「単発のワインじゃない。野菜でも木でもない。ぜんぶ、ひとつの事業にする」和馬は、紙の上に、川の絵を描いた。見慣れた、あの曲がりくねった線だ。

「まず、この街の山を、譲与税で起こす。山守を入れて、何十年も手の入らなかった人工林の、間伐を進める。――出てきた間伐材を、捨てずに、木質化の部材へ、大量に挽く。学校の机も、壁も、床も、役所も、駅も、その材で組んでいく。山を整理しながら、そのなかの、日当たりと水はけのいい石灰の適地を選んで、葡萄の苗を植える。木で、酒の樽を作る。石灰の土で、その葡萄を育てて、川下の自治体への流通を起こす。世界の空いた市場へも打って出る。畑の足元では、源蔵さんの固定種の野菜を回す。――山の間伐から、樽、ワイン、野菜まで。ぜんぶが、ひとつの流れで、繋がるんだ」 ペンが、川の絵を、ぐるりと丸で囲った。「ばらばらなら、どれも小さい。でも、ひとつの流れとして描けば――山も、木も、土も、葡萄も、人も、ぜんぶが、ひとつの『地域を牽引する事業』になる。付加価値の関所も、これなら越えられる」

 まさひろが、ゆっくりと煙を吐いた。「……でかい絵だ。でかすぎて、笑っちまうくらいな」

「ゆきさん」和馬は、金庫番をまっすぐ見た。「あなたの問いに、答えます。誰が借金を背負うか。――誰も、ひとりじゃ背負いません。まず、この事業の器になる、法人を立てます。市と、万能ファームと、民間の出し手が、金を出し合う――第三セクターです。畑も、借金も、その法人が引き受ける。若い連中の肩に、じかに背負わせやしない。そのうえで、畑が一円も生まない最初の何年かは、その器へ、譲与税と、公庫の融資を注いで繋ぐ。事業を一本に束ねて、税の控除も効かせる。――補助金頼みの、絵空事じゃない。公と民で立てた器に、眠ってる公金と、国の融資を組み合わせた、設計図です」

 ゆきは長いこと、和馬を見ていた。それからふっと、口の端を上げた。

「……顔つきが、変わったね、坊や。この前までの、半分泣きそうな新人とは、別人だ」彼女は組んだ脚をほどいた。「いいだろう。設計図が本物だと、数字で見せてみな。そうしたら、あたしの純粋な民間の金も――初めて机に乗せてやる」

 テーブルが、静かに沸いた。だがその熱の縁で、和馬はひとつの影に気づいていた。

「ひとつ、問題がある」

 原沢が、ノートパソコンの画面を皆のほうへ向けた。「この法を使うには、その手前にもう一枚紙が要る。県と市が一緒に作る、『基本計画』ってやつだ。これがなきゃ、事業計画は、そもそも出せない」原沢の声が、低くなった。「で――その基本計画を作るのに、市が加わらなきゃならん」

「市が」和馬の眉が、寄った。

「そうだ。しかも、それだけじゃない」原沢は、和馬がさっき描いた設計図を、指の先で叩いた。「おまえの言う、第三セクター。あの器も、市が出資して、はじめて立つ。市が一口も乗らなきゃ、行政の信用も、公の後ろ盾もつかん、ただの民間の会社だ。――つまり、県の水路を通るには、基本計画も、その器の第三セクターも、どっちも、入り口で、市の判子が要る。森市長が、川上が、『そんな計画は作らん』『第三セクには一円も出さん』と言えば――絵の、いちばん入り口で、詰む」

 純喫茶の静かな熱が、すうっと引いた。堰の外を通る水路。だが、その水路の入り口にも、結局同じ手が伸びている。

「県を、動かせる人間がいりゃ別だがな」まさひろが、ぼそりと言った。「市の頭越しに、県と国を動かせる人間。――そんなの、この街にゃいねえだろ。せいぜい……」彼は、言いかけて、口をつぐんだ。

「国会議員、くらいか」原沢が、引き取った。「だが、この街の選出は――川上と、握手してる連中ばかりだ」

 誰も、続けなかった。絵はできた。数字も追える。だが、その絵を県に届ける最初の一押しが、どこにもない。

 和馬は冷めた珈琲に映る、自分の顔を見た。機関のあの一行が、頭の奥でもう一度鳴った。最初に通ろうとした男が、どうなったか。

 

 週末の朝。和馬は、街の南のはずれにある、古い神社へ向かった。万能ファームの朝市が、その鎮守(ちんじゅ)の森で開かれていると聞いたのだ。自分の設計図に、本当に命を吹き込む人間たちをこの目で見ておきたかった。

 石段を上がると、思いがけない活気が待っていた。境内に、簡素な木の台が並び、不揃いの野菜が土つきのまま積まれている。葉物。根菜。見たことのない形の蕪。子どもたちが社務所の脇の一画で、小さな手を泥だらけにして種を蒔いている。若い母親が笑い、年寄りが縁台で茶をすすり、どこかで手作りのパンの匂いがした。売り買いの場、というよりひとつの小さな祭りのようだった。

「いらっしゃい。役所の人でしょう」

 明るく声をかけてきたのは、四十がらみの女性だった。動きやすい服の袖をまくり、指先に土をつけている。背筋がまっすぐで、身のこなしが軽い。人懐っこい、けれどどこか凛とした目をしていた。

「加藤(かとう)です。ここの世話役みたいなもので」女性は、やわらかく笑った。「もともとは市外で、ヨガを教えてるんですよ。片道一時間かけて、通ってるの。何年か前に、この街の自然栽培に出会って――もう、すっかり夢中になっちゃって。今じゃ、あそこの古民家まで、直しながら住みついちゃいそうで」

 市外から、わざわざ通って。惚れ込んで。和馬は内心、不思議な気持ちになった。自分は、この街から逃げ出した人間だ。それなのに、この人は、外から来て、この土地に恋をしている。同じ土地を、正反対の場所から、二人は見ていた。

「源蔵さんに、聞きました」和馬は言った。「この街の石灰の土が、世界一の葡萄を生むかもしれない、と」

「ああ、源蔵さんったら、また」加藤は、くすっと笑った。「夢みたいな話、でしょう。でも私、そういう夢、大好きなんです。ワインだって、いつか作れたら素敵よね。……でも、なかなかね」その笑みが、ふと翳った。「畑を借りるのも、市にいい顔をされない。補助金を申請しても、なぜかいつも通らないの。役所へ行くたびに、見えない壁にぶつかる」彼女は、境内の子どもたちを見た。「私たち、たぶん――邪魔なのよね。誰かに、とって」

 和馬は、何も言えなかった。源蔵が言った、上から踏みつける足。それは、ここでも、確かにこの人たちの背を、押さえつけている。

「でもね」加藤は、すぐに顔を上げた。明るさが、戻っていた。「それでも、続けてるんです。土は、嘘をつかないから。蒔いた種は、ちゃんと芽を出す。役所が何と言おうと、ね」

 そのとき、和馬の視界の隅で、もうひとりの女性が、拝殿の前に立った。四十前後だろうか。仕立てのいい、けれど飾り気のないコート。境内の喧騒から、その人の周りだけ、ふっと空気が静かになった。まるで、そこだけ音が一枚、はがれ落ちたように。

 女性は拝殿に深く一礼すると、朝市の台のひとつに歩み寄り、土つきの蕪をそっと手に取った。いや、手に取ったのではない。手のひらを、その上にかざしたのだ。目を閉じて。まるで、野菜の声を、聴くように。土の中の、何かを視るように。指先が、蕪の葉のうえで、ごくわずかに、震えていた。

「……この子は、いい土で育ちましたね」女性は目を閉じたまま、静かに言った。「もっと、奥に眠ってる。この土は――もう待っていますよ」

 和馬の背筋を、奇妙なものが駆け抜けた。

 待っている。源蔵が言ったのと、同じ言葉だった。三十年待った、と。――いや、源蔵だけではない。あの夜、ホームで冷たくなった老人が遺した、あの録音機。消えていく声も、たしかに言っていた。この街は、死にかけてなんかいない、ただ待っているだけだ、と。なぜ、この人まで、同じ言い方をするのか。まるで、同じひとつの井戸から、言葉を汲み上げているみたいに。和馬の胸の奥で、言葉にならない細い糸が、かすかに震えた。

「藤原(ふじわら)先生」加藤が、和馬に、そっと耳打ちした。「藤原杏(あん)先生。この辺の選出の、国会議員さん。変わった方でね。月に何度か、ふらっと朝市にいらして、ああやって、野菜とお話しになるの」

「国会議員」和馬は、息を呑んだ。市の頭越しに、県と国を動かせる人間。さっき、純喫茶で誰もが口にしかけて、諦めたその存在が――いま目の前で、蕪に手をかざしている。

 だが、加藤は声をさらに落とした。「ただ……あの方、川上さんとも親しいって噂で。式典なんかじゃ、いつも隣で握手なさってる。だから私たちも――どちらの味方なのか、正直、わからなくて」

 表と、裏。和馬の中で、警戒の灯がともった。

 その時、藤原杏が目を開けた。そして、まっすぐに和馬を見た。初めて会うはずのその目に、なぜか見覚えられているような――そんな、奇妙な感覚があった。まるで、この人は、和馬がこの朝市へ来ることを、ずっと前から知っていたかのように。

「市役所の、和馬さん」彼女は微笑んだ。名乗ってもいないのに。「あなた、いい水路を見つけたわね」

 和馬は言葉を失った。地域未来投資促進法。県の基本計画。そのことを、彼女はまるで最初から視ていたかのように、知っていた。

「歩きましょうか」

 藤原杏は和馬を、鎮守の森の奥のほうへ誘った。木漏れ日の落ちる、古い参道。喧騒が遠ざかる。

「市役所の壁は、市役所の中じゃ崩れません」彼女は、前を向いたまま静かに言った。「正面から押せば、潰される。あなたも、もうわかっているでしょう。――けれど、県の基本計画。あれが動けば、市の頭越しに別の水路が通る。あなたの絵を、県と国に届ける道が」

「それを――先生が?」

 藤原は、答えなかった。ただ、足を止め参道の脇の苔むした石に、指で触れた。

「私の家はね、代々、社(やしろ)の神事を守ってきた血筋なの。この鎮守にも、ご縁があって、ずっと関わらせてもらってる」彼女は、遠くを見た。「祖母は、土の声を聴く人だった。豊作も凶作も、嵐の前も土に手を当てれば、わかった。……血なんでしょうね。私にも少しだけ、視えるものがある。表で笑っている人の、裏の顔も。――この街が、本当は何を待っているのかも」

 風が、参道の梢をさらりと鳴らした。

「川上さんとは、握手します。式典でも笑います」藤原の声が、低くなった。「そうしなければ、私はこの街で一票も得られない。国会の椅子も、保てない。――でもね、和馬さん。表で握手する手と、裏で何を握っているかは別なんですよ」

 和馬の鼓動が、速くなった。味方なのか。敵なのか。判断がつかない。だが、この人は、明らかに自分と同じものを見ている。

「ひとつだけ、伝えておきます」

 藤原は振り返り、和馬をまっすぐ見た。その目から、ふっと微笑みが消えた。

「あなたの前にも、この街の流れを変えようとした人がいました」

 和馬の息が、止まった。

「とても、いい人だった。私とも長く、一緒に仕事をした」藤原の声が、わずかに、震えた。「その人は――もう、いません。ある夜、ひとりで駅にいて。そして、その場で冷たくなっていたと。事故として処理された。誰もおかしいとは言わなかった」

 駅。ひとりで。冷たく。和馬の脳裏に、あの夜が、よみがえった。終電のホーム。引き上げ線のそば。腕の中で、静かに目を閉じた、痩せた老人。事切れる間際の、託す目。まさか。

「あの人が、最後に何を、誰に託したのか」

藤原は、和馬のコートの胸元を――かつて封筒とノートが収まっていた、その辺りを、見るともなく、見た。

「私は、知りません。知らないことになっています。……でも、もし、その荷物を受け取った人がいるなら」

 彼女は、一歩近づいた。

「気をつけて。あなたがいま、通ろうとしている水路は――その人が、命を落とした水路です」

 鎮守の森が、しん、と静まった。梢の隙間から落ちる光だけが、二人のあいだで揺れていた。

 その一瞬、和馬は見た。神がかった感性も、国会議員の威も、するりと剥がれ落ちて――ただ、大切な誰かを喪って、それを長いあいだ胸の底に沈めてきた、ひとりの疲れた女性の顔を。目のふちが、わずかに赤い。喪ったのは、ずっと前のはずなのに、まるで、まだ昨日のことのように。だが、それは本当に、まばたきひとつのあいだだった。次に瞬いたとき、藤原の顔は、もう、あの静かな微笑みに戻っていた。ゆるんだ帯を、きゅっと結び直すみたいに。

 和馬は、思わず、自分の胸に手をやりたくなった。

喋りすぎて、慌てて仮面を掛け直す――それは、この旅のあいだ、和馬が何度も繰り返してきた仕草そのものだった。この人も、同じなのだ。表の顔と裏の顔を、一枚ずつ、注意深く貼り分けて生きている。……いったい、どれほど長く。

そう思うとなぜか、警戒の底のほうに、細い一本の親しみのような糸が、ひとりでに垂れた。

 藤原杏は、それ以上何も言わなかった。ただ別れ際、参道を戻りながら、ひとりごとのようにこう呟いた。

「あなたが欲しがっている、あの県の基本計画。――県が、市と組んで、新たに策定(さくてい)する。その動きが、近いうちに、県の側から、正式に持ち上がりますよ。市が首を縦に振らなくても、県が上から旗を振れば、これまで無かった入り口が、ひとつ、生まれる。市の、頭越しに。……誰が動かしたのかは、さあ。風の噂です」

 そして、来たときと同じように拝殿に深く一礼して、朝市の喧騒の中へ、溶けるように消えていった。

 残された和馬は、しばらく動けなかった。味方が、現れた。たぶん。市の頭越しに県を動かせる、ただ一人の手が。だが、その手は表で川上と握手し、神がかった感性で表と裏を、自在に使い分ける。底が、まるで見えない。それでいて、さっき一瞬だけのぞいた、あの喪失の顔だけが、やけに生々しく、和馬の胸に残っていた。

 そして――封筒の男は、事故ではなかった。この街の流れを変えようとして、消された。和馬がいま、通ろうとしているその同じ水路で。託された荷物の重さが、急に現実の重さになって、コートの内側によみがえった。

 その夜、和馬は純喫茶に皆を集めた。藤原杏のことは、ほとんど語らなかった。ただ、「県の基本計画が、近く動くかもしれない」とだけ、告げた。原沢が訝しげに眉を上げたが、深くは、訊かなかった。

 代わりに、和馬は紙の束のいちばん上に、一行を書いた。

 〈万能山間地域経済牽引事業計画(案)〉

「設計図はできた」和馬は、皆を見渡した。「眠った金で山を起こす。木で公共施設を、街を木質化する。石灰の土に葡萄を植える。樽に詰めて都心へ出す。――これを、ひとつの事業として、県に出す」

「で、肝心の」ゆきが、腕を組んだ。「ワインの中身だ。葡萄を植えりゃ、ワインになるってもんじゃないだろう。この街に、ワインをまともに造れる人間が、ひとりでもいるのかい?」

 核心の問いだった。絵は描けた。金の道筋も見えた。育てる手も土もある。だが――葡萄を、本物のワインに変える、技だけが、まだどこにもなかった。

 和馬はふと、窓の外の夜空を見上げた。眠った山の技は、西の吉野にあった。なら、眠った土の、酒の技は――どこに。

 会計を済ませ、皆と別れて店を出ると、夜気が頬を刺した。街灯の陰に、いつものように、毛糸の帽子の小柄な影が待っていた。

「いい設計図だ。だが、肝心の一杯が、まだ空っぽだな」小鹿野爺は、にっと笑った。ゆきの問いまで、聞いていたらしい。「葡萄を植えりゃ、酒になる――ってもんじゃねえ。この街にゃ、その土から酒を搾る技を知る者が、ひとりもいねえ」

「わかってます」和馬は苦笑した。「その技を、どこで学べば――」

「北だ」爺は、夜空の、いっとう冷たいほうへ、顎をしゃくった。「寒い土地ほど、葡萄は、甘い味方を持つ。凍える畑ほど、いい酒を生むのさ。――余市(よいち)へ、飛びな。雪に埋もれた葡萄が、どうやって春に立ち上がるか。痩せた土の滋味を、一滴に閉じ込める技が、どんなものか。その目で、見てこい」

「余市……、北ですか」

「西で、木を学んだ。次は、北で、酒を学ぶ番よ」爺は、それだけ言うと、来た道を、とぼとぼと帰っていった。今夜も、行き先の理由までは、置いていかなかった。

 その背を見送って、和馬が、アパートへの夜道を歩きだした、その時だった。胸ポケットの薄い電話が、一度、震えた。機関からの、短い文字。いや――今度は、感情のない、いつもの声ではなかった。どこか、人の温度の滲む、一行だった。

 ――北へ。寒い土地ほど、葡萄は甘い味方を持つ。余市へ。

 和馬の足が、止まった。爺と、寸分たがわぬ言葉。同じ夜に、別々の口が、同じ北を指している。吉野のときと、まったく同じだ。――そして、この一行の、人の温度。まるで、昼間あの森で、仮面の下から一瞬のぞいた、あの誰かの声のように――と。すぐに、まさか、と打ち消したが、その連想は、耳の奥に、しばらく残った。

 夜道の向こう、線路の上を、最終の一本が、ホームへ滑り込み、一度、後ろへ下がった。まっすぐ進むより、深く折り返す。この街のあの癖を、もう一度、なぞるように。

 眠った山。眠った金。眠った土。そして、その土が本当に育てる、燃えるように赤い、紅金。あとはその葡萄を、酒に変える技をこの手に掴むだけだ。――その水路の先で、何が待っているのかも知らないまま。

(第8話 了)

 

次話予告――第9話「北の葡萄」。機関が指し示した、北の大地・余市。寒い土地が、なぜ世界水準の葡萄を生むのか。和馬は、雪に耐える葡萄づくりと、土地の個性を一滴に閉じ込める醸造の技を学びに、北へ飛ぶ。一方、万能では――県の基本計画が動きはじめた気配を、川上の一派が嗅ぎつける。封筒の男を消した手が、ふたたび静かに動きだす。

 

AI音声解説

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著者

野口 和彦

野口 和彦

選挙 飯能市長選挙 (2025/07/20) 9,608 票
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飯能市

肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
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