選挙ドットコム

野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第9話 北の葡萄

2026/7/13

 

 西の山で木を学んだ。次は、北の大地で酒を学ぶ番だった。

 新千歳からレンタカーで二時間。和馬は日本海へ向かって車を走らせていた。十一月。低い雲が地面すれすれまで垂れ込め、フロントガラスにみぞれがぱらぱらと当たる。万能の山の、湿った深さとはまるで違う。空がただ広く、そして冷たかった。

 余市(よいち)。あの夜、爺が指し示し、機関までもが、寸分たがわず同じ北を指したその町。

 高速を降りたあたりから、和馬はルームミラーの中の一台が、気になっていた。白い国産のセダン。付かず離れず、同じ距離を保って、ずっと後ろにいる。田舎道で、行き先が同じなだけかもしれない。そう思おうとした。だが和馬が道の駅に寄るとその車も、少し先の路肩で停まった。誰も、降りてこなかった。――藤原の言葉が、頭の隅をかすめた。あなたが通ろうとしている水路はその人が命を落とした水路です。和馬はその小さな影を、旅の緊張のせいにして、いったん、脇へ押しやった。

 やがて海を望む丘陵に出た。なだらかな斜面に、葡萄の畑がどこまでも続いている。だがその畝が、奇妙だった。緑の葉はもう落ち、剥き出しの枝が垣根の針金から外され、地面のほうへだらりと寝かされている。まるでこれから、土に埋められるのを待っているみたいに。

 その丘の中腹に、瀟洒な建物が一棟あった。三角屋根のレストランとその奥に、蔦の絡む醸造所。畑のただ中に建つ、小さな城のようだった。

 約束の場所に着くと、若い夫婦が待っていた。

「わざわざ、こったら遠くまで、おばんでした」

 女性のほうが先に駆け寄ってきた。三十代半ばだろうか。頬を寒さで赤くして、背中に赤ん坊をおぶっている。その笑顔が北の曇り空の下でぽっと灯がともったようにあたたかかった。

「杉山(すぎやま)です。畑のことなら、なんぼでも聞いてってけれ」彼女はにこにこと言った。「あ、こっちが旦那の……ええと、和馬さん、じゃなくて」

「俺が杉山和也(かずや)です。妻が栽培で、俺は醸造を」夫のほうがおずおずと後ろから出てきた。線の細い、和馬と同じくらいの背丈の男だった。「あの、妻がいつも、仕切ってまして」

「あったり前でしょや。あんた去年、剪定わやにしたべさ」妻がぴしゃりと言った。

「……はい」夫が首をすくめた。

 和馬は思わず笑いそうになった。どちらがこの畑の主かは、見るより明らかだった。

 それから居住まいを正し、二人に向かって深く頭を下げた。「申し遅れました。万能市役所、地域振興課の大森和馬と申します。本日は遠いところ、飛び込みのようにお邪魔して、ありがとうございます。葡萄づくりを、一から教わりに参りました」

「あらら、まあ、丁寧な兄ちゃんだこと」女性は、頬をますます赤くして笑った。「役所の人が、こったら北の果てまで、ご苦労さんだねえ。堅っ苦しいのは、抜きでいこうや」

「で、なした。万能っつう街から、葡萄を習いに来たって?」

 妻の杏子(きょうこ)――と名乗った――が、寝かされた葡萄の枝を軍手でそっと持ち上げながら訊いた。

「はい」和馬は頷いた。「うちの街には石灰の、痩せた土があって。それが世界一のワインを生む土と同じだと教わりました。でも――こんな寒い土地で本当にいい葡萄ができるんですか。雪も降るのに」

「ふふ。みんな、そう言うのさ」杏子は笑った。「寒いと葡萄がかわいそうだべ、って。――でもね、和馬さん。逆なんだわ」

「逆?」

「寒いほど、うまくなるのさ」彼女は丘の上の灰色の空を指した。「ここは昼と夜の気温の差が、なまら大きい。昼にたっぷり陽を浴びて糖をためて、夜にきゅうっと冷えてそれを逃がさない。寒暖の差が大きいほど――葡萄は色も甘みも酸も、ぜんぶぎゅっと濃くなるんだわ」

 和馬は源蔵の言葉を思い出した。苦労した根が、土の滋味を吸い上げる。寒さもまた、葡萄を苦しめて美味くする。

「気候がね、ドイツやフランスのブルゴーニュに似てるって言われるのさ」杏子は誇らしげに言った。「冷たくて、痩せてて、葡萄が苦労する土地。――和馬さんの街の、石灰の土。冷える山。それ、ブルゴーニュと同じ顔してるかもしれんよ」

 ブルゴーニュ。源蔵が白い息とともに口にしたあの名。石灰の土は酒の土だ、と。点と点が北の畑でまた一本繋がった。

「だども、ここまで来るのに苦労もあったんですわ」

 夫の和也(かずや)がぽつりと言った。同じ「かず」を持つその男に、和馬は奇妙な親しみを覚えた。

「冬がしばれるからね。マイナス十五度、二十度になる」和也は寝かされた枝を見た。「ふつうの葡萄なら凍れて、枯れてしまう。樹が死ぬんですわ。――だから昔の人が、とんでもないことを考えた」

「とんでもないこと?」

「埋めるのさ。雪の中に。樹ごとすっぽり」杏子が引き取った。

 和馬は目を見開いた。

「冬が来る前に垣根から枝を外して、地面に寝かせる。そんで雪が降ったらそのまま雪の布団をかけてやるんだわ」杏子は地面の枝を愛おしそうに撫でた。「不思議だべ? 雪の中は外よりあったかいのさ。マイナス二十度の風から、ゼロ度くらいの雪の中へ。葡萄はぬくぬく眠って、春を待つ」

「外国のワインの先生が来るとね、みんなたまげるんですわ」和也がはにかんだ。「葡萄を雪に埋めるなんて、世界中ここらしかないからって」

 和馬の中で、何かが静かに音を立てた。埋める。隠す。一見、後ろ向きの非効率に見えるその一手が――極寒を生き延びるただひとつの知恵だった。まっすぐ立たせておけば枯れる。倒して埋めて守るからこそまた春に立ち上がれる。

 それは和馬の故郷のあの線路と、同じ思想だった。まっすぐ進めば街を貫いて出ていく。だからわざと頭から突っ込んで、折り返す。一見、無駄な後ろ向きのひと手間。けれどそれが街を終着駅にし、座って通える宝に変えた。

 スイッチバック。北の葡萄もまた、後ろへ退くことで生き延びていた。

「うちの街にも、後ろ向きに走る電車があるんです」和馬は思わず呟いた。「みんな無駄だと思ってる。でもそれが本当は――街を生かしてた」

「あら」杏子は目を丸くした。それからふわりと笑った。「したっけ和馬さんの街と、うちの葡萄は気が合うわ。どっちも、いっぺん退いて強くなるんだもの」

「口で言うより、やってみるのがいっとう早いべ」

 和也が和馬に軍手と、小さな移植ごてを手渡した。「せば、いっしょに埋めるべ。まだ半分、残ってるんだ」

 和也について、畝のあいだにしゃがむ。垣根の針金から外され、地面に寝かされた一本の枝。その枝に触れる和也の手つきは、地上では見せなかった、確かな職人のものだった。

「こうやって、そうっと、たわめてね。折らんように」和也はしなやかな枝を地面のほうへゆっくり導いた。「この子らは、夏じゅう上へ上へと伸びたがってた。それを冬の前に、いったん地面に寝かせてやる。プライドを、いっぺん下ろさせるみたいでね。……最初は、かわいそうで、しかたなかった」

 和馬も見よう見まねで、一本たわめた。思いのほか枝はしなやかで、素直に地面へ身を伏せた。その上に和也がふわりと土をかけていく。和馬も続いた。冷たく湿った、北の土。それが枝を静かに覆い隠していく。

「不思議なもんでね」和也が手を動かしながら言った。「いちばん寒くて、暗いとこに埋めた子ほど、春にいっとう元気に芽を出すんですわ。守られてたぶん、力をためこんでるんだべね」

 和馬は土のついた手を見つめた。立たせておけば折れる。倒して、隠して、守るからこそまた立ち上がれる。その理屈をいまこの手のひらの冷たい土の感触で確かにわかった気がした。役所の椅子で書類をめくっているだけでは、たどりつけない知恵だった。土にしゃがんで、枝を寝かせて、初めて腑に落ちる。

「和也さん。あなた、畑に出ると、さっきと別人ですね」

 和也は照れたように笑った。「……ここでだけは、妻に勝てるんですわ。醸造だけは、ね」

 その声が、風の中で、少しだけ誇らしげだった。

「せっかく来たんだ。うちのいっとう自慢のとこ、見てくべさ」

 杏子に連れられ、醸造所の脇の、鉄の扉をくぐった。石段を、地の底へ下りていく。ひやりとした空気が、頬を撫でた。下りきると、そこは洞窟のようだった。ごつごつした岩肌の壁。裸電球の、頼りない灯り。そして左右に、樽が――何十と静かに眠っていた。

「熟成庫さ。年じゅう、ひんやり涼しくてね」杏子の声が、岩壁に低く反響した。「ここでワインを、何年も眠らせるのさ。暗くて、寒くて、なんもない場所で。――でもねこの暗がりの中で、ワインは、ゆっくり角が取れて、深くなっていくんだわ」

 和馬はずらりと並ぶ樽を見渡した。地の底の、暗く冷たい場所。そこで時間をかけて、眠って、強くなる。雪に埋められた葡萄と、同じだった。いやそれだけではない。折り返して沈み込むスイッチバックとも、眠れる七割五分とも、同じだった。

 この旅で、和馬は三度、同じ知恵に出会っている。退くこと。沈むこと。眠ること。それは終わりではなく、次の春のための、力の溜め方だった。

「暗くて寒いのを、嫌がっちゃ、いい酒にならんのさ」杏子は樽をひとつこんと叩いた。「じっと待てる者だけが、深い味に、なれるんだわ」

「よし。ここまで来たら、飲まねば、わからんべ」

 地上のレストランに戻ると、大きなガラス窓の向こうに、寝かされた畑と、灰色の海が広がっていた。杏子が一本のボトルを、和馬の前に置いた。

 和也がそっと栓を抜く。ぽんと軽やかな音がして――白い泡が、ふわりと立った。だがグラスに注がれたそれは白でも、ロゼでもなかった。深い、ルビーの赤。その底から細かな泡がいくつもいくつも静かに立ちのぼっていく。

「赤の……スパークリング?」和馬は目を瞠った。

「めずらしいべ?」杏子が得意げに笑った。「泡といえば、白か、ロゼが、あたりまえさ。赤の泡は、なかなか、ない。手が、かかるからね。――でも、飲んでみな」

 和馬は一口、含んだ。きめ細かな泡が舌の上で、しゅわりと弾ける。その奥から、苺と赤い果実の凝縮した旨みがふわっと広がった。軽やかなのに芯がある。祝いの華やぎと、北の土の記憶が一杯の中に、同居していた。

 和馬はしばらく、言葉を失った。――これだ。

 紅金(くれないきん)。彼の名づけた系譜の、三番目の金。それがいま、赤い泡になって舌の上で、跳ねていた。木金。白金。そしてこの、燃えるように赤い、祝いの泡。

「ロゼの泡なら、世界じゅうに、いくらでもある」和馬はグラスを見つめて、呟いた。「でも、赤の泡は、珍しい。――これなら、『安いから買ってください』じゃない。『これじゃなきゃ、駄目だ』って、言わせられる」

「よう、わかってるね」和也がめずらしく身を乗り出した。醸造の話になるとこの男は人が変わる。「泡のワインはね、世界で白がだいたい八割。ロゼがここ何年かで伸びて、一割五分くらい。……赤はたったの二分(にぶ)しかないんですわ」

「二パーセント……」和馬は繰り返した。

「理由は、はっきりしてる」和也が指を一本立てた。「泡の王様、フランスのシャンパンは、法律で白とロゼしか認められてない。だから世界一有名な高級スパークリングに、赤はいない。王者のいないジャンルなんですわ」

「王者が、いない」

「イタリアのランブルスコや、オーストラリアのスパークリング・シラーズくらいでね」和也は言った。「でもそれがクリスマスだの祝いの席だの、肉を囲む食卓じゃ、めっぽう愛されてる。すっきりした辛口から、果実味たっぷりの甘口まである。赤の泡は、地味な脇役なんかじゃない。まだ王様のいない、空っぽの玉座なんですわ」

「でもね、和馬さん。ワインには、ほんとにピンからキリまであってね」杏子が赤い泡のグラスを灯に透かした。「スーパーに、びっくりするほど安いのが並んでるっしょ。あれ、なして、あんなに安いか、考えたことあるかい」

「言われてみれば……」

「安いには、安いだけの理由があるのさ」和也がぽつりと言った。「よそから、タンカーで、どぼどぼ運んでくる。濃縮した果汁を水で戻したり、足りん甘みや香りを、あとから足したり。手間をかけずに、量だけ作る。そういう作り方も、あるってことさ」

「ぜんぶが悪い、とは言わんよ」杏子が笑った。「安くて、みんなが気軽に飲めるのも、ええことだ。したっけね――この国の土でも、こんなに、ちゃんとした一本ができるっしょ。あたしらはそれを、もっともっと増やしたいのさ。よそから買うばっかりじゃなくこの土地の味をね」

 空っぽの、玉座。和馬の背筋を電流のようなものが走った。白でも、ロゼでもない。世界のたった二分の、けれど王者不在の、高級の空白地帯。そこへ万能の石灰と冷える山が生むたった一つの赤い泡で名乗りを上げる。安売りの土俵ではなく、まだ誰も座っていない王座を狙う。

 高野の声が、よみがえった。安いほうやのうて、ええほうでいちばんを取る。値段で選ばれたんと、ちゃう。これやないと、あかん、と選ばれたんや。

 そしてその瞬間、和馬の頭の中でいくつもの声が、ひとつの形に重なった。

 外材だよ、と杣田は言った。安い外国の木が、船で、どっさり。同じ柱が三分の一の値で買える。だからみんな山を捨てた。――F1の種だ、と源蔵は言った。よそから毎年、買い続けるしかない。種を明け渡すのは、土地を明け渡すのと同じだ。――そして今この余市の夫婦は言う。安いワインなら、よそからいくらでも入ってくる。だが安いには、安いだけの理由があるのだ、と。

 和馬はグラスの底の赤を見つめた。ぞくりと、背筋が冷えた。木も、種も、酒も。この国は、あらゆるものを、安い、安いと言って、外から買い続けてきた。買えば買うほど自分の足で立つ力を少しずつ、明け渡してきた。それは木や種や酒の話ではなかった。もっと大きな、ひとつの流れだ。安いほうへ、安いほうへとこの国じゅうをじわじわ攫っていく目に見えない波。――その波の、本当の大きさは、まだ和馬には、見えていなかった。ただ、行く先々で同じ顔をして待ち構えていたその不気味な同型だけが、腹の底に、重く沈んだ。

 だがと和馬は思った。その波に、勝つ道が、ひとつだけある。杣田も、高野も、源蔵もこの夫婦も、みな同じことを言っていた。安さで、張り合うな。奪えない一点になれ。値段で選ばれるのではなく、これじゃなきゃ駄目だ、と言わせろ。――万能の赤い泡はその、奪えない一点になれる。

 万能の紅金は、赤の泡でいく。和馬の中で、街の旗が、一本鮮やかな色に、染まった。

「このピノって葡萄は」和馬は訊いた。「どんな土が、好きなんですか」

「石灰さ」杏子が即座に言った。「水はけがよくて、痩せてて、根が苦労して深く潜る土。ブルゴーニュのあの王様の畑も、石灰の土だべ」

 和馬はグラスを握りしめた。万能の、石灰の岩盤。冷える北の山。そこにこのピノを植えれば――万能で、紅金の、赤い泡ができる。源蔵の見た夢がただの夢でないことをこの北の畑が、一杯のワインで証明していた。

「でもさ、和馬さん。いっとう勇気が出るのは、こっからだわ」

 杏子は赤ん坊を背中であやしながら言った。「うちらだって、最初から葡萄農家だったわけじゃ、ないのさ。和也は東京でくたびれた勤め人でね」

「……はい」和也がまた首をすくめた。

「ワインが好きで、好きで。脱サラして、ここへ移ってきたんだわ。土地も、技術も、コネも、なんもなかった」杏子は笑った。「ふつうなら、ワインなんか造らせてもらえない。設備も、許可も、金もいるからね」

「でも、できた?」

「特区(とっく)っつうのが、できたのさ」杏子は海のほうを見た。「国がここを、ワインの特区にしてくれてね。小さい造り手でも、ワインを造っていいよ、って、規制をゆるめてくれた。おかげで、うちみたいなちっこい移住者でも、自分の名前で一本出せるように、なったんだわ」

 特区。規制をゆるめ、小さな者にも道を開く。それは和馬が万能ファームのために、地域未来投資促進法で開こうとしているあの水路と同じ思想だった。

「だどもいっとう困ったのは、金さ」和也がぽつりと言った。「葡萄を植えても、まともなワインになるまで、何年もかかる。その間、一円にも、ならん。畑とこの醸造所と、洞窟を作るのに――借金だらけで、夜も眠れんかった」

 和馬の胸が、ちくりとした。ゆきの問いと、同じだった。実るまでの何年か、誰が金を出す。

「したっけね、いい手を、思いついたのさ」杏子がにっと笑った。「『ワインの木の、オーナー制度』」

「オーナー制度?」

「畑の葡萄の木を、一本ずつ、都会の人に、オーナーに、なってもらうのさ」杏子は窓の外の畑を指した。「年に、いくらか出してもらってね。かわりにその木からできたワインを、毎年、届ける。畑に、名札もつける。――そうすりゃ、葡萄が実る前から、お金が入るべ。しかもその人らは、もう、うちの仲間さ。毎年ワインが届くのを、楽しみに、待っててくれる」

 和馬は雷に打たれたように、動けなかった。実る前から、支え手を、集める。ただの客ではなく、仲間として。それはゆきの「誰が金を出す」への、もうひとつの答えだった。ふるさと納税もこの「木のオーナー」も、同じだ。実りを、待ってくれる人を、先に、街ぐるみで、集めればいい。

「万能でも――やれる」和馬は呟いた。「葡萄の木に、畑の野菜に、街じゅうの作り手に。全国の応援したい人を、オーナーにする。実る前から、仲間を集める」

「そうそう。それさ」杏子は深く頷いた。「ちっこいのは、弱いんでない。ちっこいからその土地の味がまっすぐ出るのさ。――うちらも、ずっと応援してるわ。なんなら、いつか万能まで押しかけて、手伝ってやるからね」

「ああの、俺も」和也が慌てて付け足した。

「あんたは、剪定、もっと上手になってからだわ」

「……はい」

 和馬は声をあげて笑った。久しぶりに、腹の底から笑った気がした。

 その晩、和馬は夫婦の家に泊めてもらった。ストーブの上で鍋がことこと鳴り、赤ん坊が健やかな寝息を立てている。窓の外は、初雪をうっすらとまとった畑が、暗く沈んでいた。

 杏子が台所に立った隙に、和馬はそっと上着の内ポケットの薄い電話を確かめた。原沢から、短い文字が届いていた。

 ――県の基本計画、動き出した。誰かが上から押した。藤原か。……だが川上も気づいた。

 そしてもう一行。

 ――気をつけろ。お前の周りを嗅ぎ回ってる奴がいる。余市まで、ついて行ってないか。

 和馬の指が、止まった。昼間のあの白いセダン。付かず離れず、同じ距離を保っていた影。旅の緊張のせいだと、脇へ押しやったあの車だ。物好きな観光客なんかじゃ、なかった。

 窓の外の、暗く沈んだ畑に目をやる。国道のほうに、一台、車が停まっていた。ヘッドライトは消えている。誰も降りてこない。ただじっとこの家の灯りを見ているように。

 藤原の言葉が、よみがえった。あなたが通ろうとしている水路は――その人が命を落とした水路です。封筒の男。駅でひとり、冷たくなった連絡将校。事故として処理された、他殺。その同じ手がいま、はるばる北の果てまで伸びてきている。和馬が紅金に近づいた、ちょうどその時に。

 この家には、赤ん坊がいる。あたたかい鍋があり、健やかな寝息がある。その灯りを、暗がりの中から、誰かが見ている。和馬はこぶしを握った。自分の足取りがこの何の罪もない夫婦の家の戸口にまで、影を連れてきてしまった。その事実が、赤い泡の余韻を、すっと苦くした。

「和馬さん? どうしたの、外なんか見て」

 杏子のあたたかい声に、和馬は我に返った。窓の外をもう一度見ると――車は、もういなかった。気のせいだったのか。それとも。

「いえ。初雪が、きれいで」和馬は微笑んで、ごまかした。

「したっけ、いっぱいお食べ。明日、帰るんだべ?」杏子は湯気の立つ椀を、和馬の前に置いた。「街をよくするのって、葡萄と同じだわ。すぐには実らない。何年も世話して、待って。いっぺん雪に埋めて、守ってやって。――でも、ちゃんと春が来るからね」

 和馬はその椀のあたたかさを、両手で包んだ。この旅で出会った人々が、皆、同じことを言っていた。気の長い話さ、と。植えた人間は、伐るところを見ちゃいねえ、と。一粒を土に返せば、万倍になる、と。そして今、いっぺん雪に埋めて守ってやれば、ちゃんと春が来る、と。

 眠った山。眠った金。眠った土。眠った街。ぜんぶいま死んでいるのではない。雪の下で、暗い洞窟で、春を待っているだけだ。

 翌朝、和馬は夫婦と赤ん坊に見送られて、畑を後にした。杏子が別れ際、一本のボトルを、和馬の手に握らせた。あの、赤いスパークリング。北の、紅金。

「万能で葡萄ができたら――いっとう最初の一本、うちに飲ませてけれ」杏子は笑った。「待ってるからね。なんぼでも」

 車を走らせながら、和馬は助手席のその一本を、ちらりと見た。深いルビーの中に、まだ、無数の泡が眠っている気がした。そしてルームミラーをもう一度、確かめた。今朝の道に、白いセダンは、いなかった。だが和馬はもう油断しなかった。見えないだけだ。あの波と同じで。安いほうへ街を攫っていく流れと同じで。見えないところで確かに、動いている。

 西の吉野で、木の技を。北の余市で、酒の技を。眠った七割五分を起こす欠片がまた揃った。木の技。石灰の土。ピノの葡萄。赤い泡の旗。そして実る前から仲間を集める、木のオーナー制度。

 あとは――これを、万能のあの石灰の岩盤の上に、一枚の絵として描くだけだ。山も、木も、土も、葡萄も、人も、ぜんぶを束ねた、大きな設計図を。

 だが和馬は知っていた。その絵を描こうとした瞬間に、昨夜のあの消えた車のような影が、必ず立ちはだかることを。封筒の男を消したその手が。

 みぞれが晴れ、雲の切れ間から、淡い光が北の海に差した。和馬はアクセルを踏んだ。春は、ちゃんと来る。雪の下で、暗い洞窟で、待っている者のところへは。

(第9話 了)

次話予告――第10話「七割五分のグランドデザイン」。西の木、北の葡萄。旅で集めた欠片を、和馬はついに一枚の絵に束ねる。山林と農地、七割五分の眠れる大地を「奥武蔵」の名のもとに甦らせる壮大な設計図。だがその絵を県へ届けようとした時、立ちはだかるのは「広すぎる土地」という呪いと――和馬を北まで尾けてきた、川上の見えざる手だった。

 

AI音声解説
https://notebooklm.google.com/notebook/a4a8db1f-22c0-4e46-a4a1-d3506a5ffc8c/artifact/022987c8-da4d-4aec-a83c-9b44e9194a8b?utm_source=nlm_web_share&utm_medium=google_oo&utm_campaign=art_share_1&utm_content=&utm_smc=nlm_web_share_google_oo_art_share_1_

この記事をシェアする

著者

野口 和彦

野口 和彦

選挙 飯能市長選挙 (2025/07/20) 9,608 票
選挙区

飯能市

肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
その他

野口 和彦さんの最新ブログ

野口 和彦

ノグチ カズヒコ/51歳/男

月別

ホーム政党・政治家野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)小説『スイッチバック』 第9話 北の葡萄

icon_arrow_b_whiteicon_arrow_r_whiteicon_arrow_t_whiteicon_calender_grayicon_email_blueicon_fbicon_fb_whiteicon_googleicon_google_whiteicon_homeicon_homepageicon_lineicon_loginicon_login2icon_password_blueicon_posticon_rankingicon_searchicon_searchicon_searchicon_searchicon_staricon_twitter_whiteicon_youtubeicon_postcode