2026/7/20

万能の冬は湿っていた。
知床の乾いた寒さのあとでは、山あいの空気がやけに重くやわらかい。低い雲が稜線に垂れ込め、遠い尾根は雨に烟っている。乾いて鋭い北の風とは、何もかもが逆だった。旅装のまま、和馬は純喫茶の扉を押した。
「北の土産話、聞かせてもらおうか」
奥の席でゆきが帳簿から目を上げた。まさひろ、丸木、シスコ、原沢――チーム万能の顔が湯気の向こうに揃っている。和馬は腰を下ろすなり切り出した。
「羊です。うちの街で、羊を飼う」
「羊」ゆきの眉が片方だけ上がった。
「知床の羊は臭みがなかった。脂が甘いんです」和馬はあの一皿を思い出しながら言った。「日本人が食う羊肉のうち、この国で育ったのは〇・五パーセントしかない。あとはぜんぶ輸入だ。市場がまるごと空いてる」
「空いてる市場か」原沢が静かに数字を書き留めた。
「しかも紅金と組める」和馬は身を乗り出した。「世界の泡ワインで、赤はたった二パーセント。その希少な赤の泡に、〇・五パーセントの国産ラムを合わせる。希少に希少を掛ける。誰にも真似のできない、たった一つの宴です」
シスコが、ほう、と息を吐いた。「肉に酒に物語。ママ友連中が放っておかない絵だね」
「羊毛も糞も乳も出る」丸木が太い指を折った。「捨てるとこがねえ生き物だ」
まさひろが腕を組んで頷く。だが、ゆきの目は冷えたままだった。
「で。その羊は、いつ銭になる」
和馬は言葉に詰まった。
「仔が生まれて育って、肉になるまで何年かかる」ゆきは指を折った。「その間、羊は草を食うだけの金食い虫だ。実るまで誰が餌代を出す。誰がその赤字を抱える」
余市で同じ問いを突きつけられた。ワインの木が実る前から、支え手を全国から募る――杉山夫婦の、木のオーナー制度。
「オーナー制度です」和馬は答えた。「実る前から、支え手を全国から募る。育つ様子を毎年届けて、赤字を応援に変える。余市で見た、木のオーナーと同じやり方です」
ゆきはしばらく和馬を見ていた。それから、ふっと口の端を上げた。
「――考え方は、及第点だ。夢に、銭の裏づけがついてきた」ゆきは、すぐに真顔へ戻った。「けどな、羊はまだ早い。夏を越せる目処もないうちに、オーナーは募れん。銭を出した相手の羊が暑さで死んだら、信用は一度で終わりだ」
「じゃあ、どこから」
「先に動かすのは、もう決まってる方さ」ゆきは言った。「紅金だ。葡萄なら、土も作り方も、余市で見てきたろう。壁待ちの羊より、いま植えられる葡萄から、金の流れを作る」
和馬は頷いた。順序が、見えた気がした。まず、決まった紅金から動く。羊は、あの夏の答えを――涼しい日陰を作る術を、どこかで掴んでからだ。だが、その術がどこにあるのか、和馬には、まだ見当もつかなかった。
純喫茶に、小さな笑いと、確かな熱がこぼれた。北の旅は、手ぶらじゃなかった。
翌日。和馬は鎮守の森の朝市に、加藤を訪ねた。
万能ファームの世話役だ。四十代のヨガインストラクターで、市外から片道一時間かけて通ってくる。この街の自然栽培に惚れ込み、朝市を切り盛りしながら、傾いた古民家の再生にも汗を流していた。よそ者のはずが、誰より、この土地に恋をしている。
和馬が羊の話をすると、加藤は両手を胸の前で合わせ、目を輝かせた。
「素敵……! うちの、耕せない斜面」加藤の声が弾んだ。「あの荒れた土地に羊を放てば、草を食んで、糞が土を肥やす。使えなかった土地が、お肉とお乳と堆肥を生む。土って、ほんとに正直よね」
冬枯れの境内に、朝市の湯気が立っている。脱サラやUターンの就農者たち。下から芽吹いた、本物の芽だ。この輪を市民の手に取り戻すこと――それが和馬の、いちばん奥の使命だった。
だが、その夢は二つの壁に阻まれた。
ひとつは、生き物の壁。
「羊は暑さに弱いんです」和馬は本間の言葉をそのまま渡した。「寒さにはめっぽう強い。だが夏の暑さで乳が止まり、子が育たず、ひどい年には死ぬ。――万能の、山あいに熱と湿気がこもるあの夏を、北の羊は越せない」
加藤の顔が曇った。夏。山あいのこの街に、熱と湿気のこもる季節。想像しただけで、答えのない問いだと誰にでもわかった。
「じゃあ……羊は、諦めるしか」
「まだ、わからない」和馬は、自分に言い聞かせるように言った。だが、その先の言葉は続かなかった。北の男は「日陰さえ作れれば」と言った。その日陰を、この蒸す山あいの街でどう作るのか――そこが、まるで見えない。
落胆した加藤を背に、和馬は境内をあとにした。羊も、土地もある。だが、この街の夏が、それを阻む。――そして、羊の夢を阻む壁は、暑さだけではなかった。もうひとつの壁が牙を剥いたのは、その夜だった。
その夜。純喫茶へ戻ると、原沢が難しい顔で、卓に議案書を広げて待っていた。加藤も、呼ばれて隣に座っている。
「和馬さん。見つけた」原沢が一枚の紙を差し出した。声が低い。「議会が、条例改正を動議に上げた。『生活環境の保全』の名目で、市街化調整区域での家畜の飼養に厳しい網をかける」
「うちの畑は」加藤の声が掠れた。
「まるごと網の中だ」原沢は頷いた。「新しく家畜を飼うなら、届出、施設基準、周辺同意――関所をいくつも通らされる。実質、始めるな、という条例だ」
「なぜ、今」和馬は紙を睨んだ。
「ここを見てくれ」原沢の指が、条文の隅を叩いた。「附則。既存の事業者は適用除外。――川上に連なる古い畜産――喜多村のとこだけが、網の外に残る。新しく始める者だけを縛って、身内は守る条例だ」
和馬は奥歯を噛んだ。
川上の手。役所と議会という堰。上から水を流し、下から芽吹く芽を踏みつぶす、水路の番人。羊が来るより先に、道が塞がれていた。
「県の基本計画も動かん」原沢が続けた。「入口を市議会が握ったままだ。川上の閂は、かかったきりだ。設計図が固まらんうちは、県もうかつには動けん」
暑さも、条例も、正面からは崩せなかった。ひとつずつは正しいのに、噛み合うとどこにも進めない。船底の浸水。純喫茶の卓の下で、和馬はこぶしを握りしめた。追い詰められている。北の果てで羊を撫でていたあいだにも、堰は静かに、着々と高くなっていた。
同じころ。街を見下ろす高台の、川上建設の一室。
厚い絨毯に、革張りの椅子が沈んでいる。上座で、川上孝政が脚を組んでいた。七十を越えてなお、背筋は鉄骨のようにまっすぐだ。卓上には、一枚の写真が放り出されている。北の牧場。柵の中の羊。そのそばに立つ、若い男の横顔――和馬だった。
「余市で葡萄、知床で羊、ときたか」川上は写真を指先ではじいた。「大森の、逃げ帰りの小僧が、ずいぶん遠出をする」
向かいの椅子で、市議会の重鎮が身を縮めた。
「あの万能ファームとかいう素人の百姓ごっこが、県の計画に乗ろうとしております」議員は揉み手で言った。「葡萄に羊に……街をまるごと作り変える気かと」
「作り変える、な」川上は窓の外の街を見下ろした。祖父の代から、この街の土を掘り、道を通し、橋を架けてきた。川上の鉄は、この街の骨だ。「素人が思いつきで土台をいじれば、街は傾く。飯の食い上げになる者が、何百と出る。守ってやらにゃならん。この街の秩序をな」
彼の中で、それは悪ではなかった。守るための、正しい手だった。
「例の家畜の条例だ。早めに通しておけ」川上は静かに言った。「新参者が、勝手に始められんようにな。……ただし、喜多村んとこは除外だ。あそこには長年、世話になっとる」
「は、はい。附則に、そのように」
誰かを傷つけるつもりなど、露ほどもなかった。ただ堰は、また一段、高くなった。
和馬は、たまらず純喫茶の外へ出た。凍えた夜気が、火照った頭を冷やしていく。山あいの闇は、深い。
「しけた面、してるな」
しわがれた声が背後から降った。毛糸の帽子の老人が、いつのまにかそこに立っている。小鹿野の爺だ。湯気の立つ甘酒の椀を、二つ提げていた。
「爺さん」
「羊は暑さに弱え。だから飼えねえ。――そう諦めるのかい」爺は椀の一つを和馬に押しつけた。「知床の男は、なんて言った。よく思い出しな」
「……涼しい日陰さえ作れれば。夏も、越せる、と」
「だろうな」爺は、闇に沈む西の峰を、顎でしゃくった。「そいつをこさえてる男がいる。畑の上に不思議なものを架けて、陽と農を分け合う男さ。日陰を、金に変える術を持ってる」
「どこに」
「西だ。空のいちばん近いとこ。日本でいっとう高え駅の、そばさ」爺の目が細く光った。「暑い土地の答えは、暑い土地の奴に聞け――そう言われたんだろ。だがな、日陰の作り方は、いっとう寒い土地の奴が、いっとうよく知ってる。あべこべに見えて、それが近道さ」
和馬は、はじめて、その土地の名を聞いた。
伝書鳩が、また行き先を指した。和馬の知らない場所へ、和馬を飛ばすために。この老人はいつも、答えそのものではなく、答えのある場所だけを指し示す。まるで、和馬自身に掘り当てさせるように。
「条例は、どうします」和馬は訊いた。「羊の日陰を見つけても、道が塞がれたままなら」
「壁を正面から殴るな」爺は甘酒をすすった。「殴れば、向こうも殴り返す。回り込め。条例が縛れねえ土地の使い方を、その高原の男が教えてくれる。――堰ってのはな、水路を変えちまえば、ただの置き物さ」
甘酒が冷えた指に熱かった。和馬はそれを一息にあおった。喉の奥から、じんわりと熱が回る。
行き止まりだと思った壁の、その向こう側に、まだ見ぬ道が一本、細く光って見えた気がした。
純喫茶に戻った和馬は、皆に、西の高原の話をした。すぐにでも発つつもりだった。だが、皆の反応は、思いがけないものだった。
「今度は、あたしらも行くよ」
シスコが腕を組んで言った。まさひろも丸木も、原沢さえも頷いている。
「和馬さんは、いっつも一人で行って、一人で土産話を持って帰ってくる」まさひろが、にやりとした。「こっちは留守番で、あんたの話を聞くだけだ。もう飽きた。今度は、この目で見せてもらう」
和馬は面食らった。
「だが、すぐには無理だ」ゆきが帳簿を閉じた。「冬のあいだ、皆で街を空けられるか。紅金の畑の段取りも、条例への備えも、これからだ」
「それに、あたしんとこの下の子が、まだ手がかかる」シスコが苦笑した。「ママ友に預けるにも、段取りがいる。春になって、上の子が学校に上がって、下の子の預け先が固まりゃ、身軽になる。それまで、待ちな」
「春まで……」和馬は、逸る声を漏らした。条例も、閂も、待ってはくれない。
「ちょうどいい」まさひろが腕を組んだ。「日本一高え駅のそばなんだろ。今ごろ、あの高原は雪の下だ。畑も、羊の草も、眠っちまってる。物を見るなら、生きて動いてる時に見なきゃな」
「それに――一人で見た絵より、皆で見た絵のほうが、遠くまで届く」ゆきが静かに言った。「あんたの土産話を、あたしらがまた留守番で聞くのは、これで終いだ」
和馬は、逸る足を地面に押しつけた。
待つ。だが、ただ待つのではない。冬のあいだに、決まった紅金の畑を段取りし、ワインの木のオーナーを全国から募る。原沢は条例の作為を洗い、加藤は石灰の斜面に手を入れる。春に皆で発つ頃には、絵図は、もう半分、動き出している。
退いて、力を溜める。いっぺん折り返して、強くなる。――それもまた、この街のスイッチバックだった。
窓の外を、粉雪が舞いはじめた。長い冬が来る。その果てに、春が待っている。
(12話 了)
次回予告 第13話「日陰の値打ち」
雪が解け、土が目を覚ます春。和馬は、待ちくたびれたチーム万能を引き連れて、日本一空に近い駅に降り立つ。畑の上へ簾のように架かる、太陽光のパネル。その下で、ファンキーな装いの一級建築士・ユウが待っていた。発電と、農と、放牧を一つの土地に重ねる「立体の一次産業」。そして、電線も水道も引かぬ家。日陰は、邪魔ものか、値打ちものか。羊の夏を越す答えと、七割五分の呪いを裏返す鍵が、八ヶ岳の高原に埋まっている。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
ホーム>政党・政治家>野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)>小説『スイッチバック』 第12話 夏の壁