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野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第14話 足元の幻

2026/7/27

 

 連休明けの万能市役所は、気の抜けた空気に沈んでいた。

 地域振興課――地域を興すはずの課が、いちばん地域に絶望している。皮肉な話だ。和馬は自分の席で、県の畜産資料をそっと繰っていた。回覧に紛れて取り寄せた一枚のコピーにその鶏の名があった。

 タマシャモ。県でただ一つの地鶏。県がひなを供給し、飼う農家はわずか二戸。半世紀ちかく、この県の片隅で静かに守られてきた鶏だった。

「県の地鶏で町おこしかい」

 桑原課長が手元を覗き、鼻を鳴らした。「昔、誰かが同じことを言ってたよ。鳴かず飛ばずで消えた。この街にそんな余力はない。国から金でも下りりゃ別だがね」

 諦め。中央依存。またしてもそれだ。この課の口ぐせだった。

 だが和馬は県の畜産部門へ電話を入れ、その農家の在り処を聞き出した。地域振興課の名刺はこういうときによく効く。冴えない下っ端のささやかな役得だった。潜り込んだこの席が、また一つ扉を開けた。昼は諦めた課の下っ端の顔をして、その同じ手で街を掘り起こす鍵を、一本ずつ抜き取っていく。二重の暮らしにも、和馬はもうずいぶん慣れていた。

 窓の外で桜の若葉が光っていた。地域振興と札の掛かったこの部屋で、誰も地域を信じていない。国の交付金を待ち、前例を守り波風を立てぬことだけを仕事と呼ぶ。――だが、と和馬は思う。諦めているのはこの課の空気だけだ。街そのものはまだ死んじゃいない。眠っているだけの宝が、今日もまた一つ見つかった。

 週末。チーム万能は、車を連ねてその農家へ向かった。

 驚いたのはその近さだ。吉野へ、余市へ、知床へ、野辺山へ。日本じゅうを飛び回ったあげく、答えの一つは車で小一時間の里山の奥に、ひっそりと在った。同じ県の、目と鼻の先に。

「灯台下暗し、ってやつだね」シスコが新緑の窓を見て笑った。

 和馬は笑えなかった。野渕の種と同じだ。宝はいつも遠くではなく、足元に埋まっている。ただ誰も掘り起こそうとしないだけで。遠くまで探しに行かねば、足元の値打ちにすら気づけない。――それもまたこの街の病だった。そしてその病を、いちばん深く患っていたのはほかでもない、この街を見限って出ていった、和馬のような人間だった。足元を捨てて遠くにばかり、答えがあると思っていた。

 車は見慣れた景色の中を走っていた。特別な土地ではない。ありふれた里山だ。だがそのありふれた山ふところに、県でただ一つの地鶏が半世紀ものあいだ静かに守られてきた。誰の目にも留まらぬまま。

 里山のふところに、その鶏舎はあった。

 金網の向こうで鶏が悠々と土を蹴っている。狭い檻ではない。放し飼いだ。陽を浴びた羽が赤銅色に鈍く光り、太い脚が地を踏みしめて力強い。和馬の知る、あの白いブロイラーとはまるで別の生き物だった。

「戸倉です」

 鶏舎から出てきたのは、七十がらみの痩せた男だった。目だけが、若い衆のように鋭い。この県でたった二人きりのタマシャモの作り手の一人だ。

「もとは中華の料理人でね」戸倉は鶏を見ながら言った。「店をやってたころ、廃鶏を百羽ほどもらった。卵を産まなくなった用済みの鶏さ。潰すのも忍びなくて、裏の空き地に放してやった。――そうしたら」

「そうしたら?」加藤が身を乗り出す。

「三月で見違えた。羽艶が戻って、また卵を産みだしたのさ」戸倉の目が細くなった。「狭い檻で用済みと決めつけられてた鶏が、土と陽をもらっただけで蘇った。おれはそれに惚れてね。放し飼いに賭けることにした」

 用済みの鶏が蘇る。その言葉が和馬の胸を、静かに突いた。

 沈みかけた街と同じだ。終わってなどいない。ただ、生かし方を間違えているだけだ。――いや、と和馬は思う。街だけじゃない。東京ですり減って、用済みと決めつけられ、敗者の顔をしてこの土へ戻された男。そのおれもまた、あの廃鶏と同じなのかもしれない。狭い檻を出て故郷の土と陽をもらって――知らぬ間に少しずつ、息を吹き返している。羽艶を取り戻しかけている。認めるのは少しばかり、照れくさかった。

「そのころ、県の試験場が面白い鶏を作ったと聞いてね」戸倉は続けた。「大和シャモの血を引いたこの県だけの地鶏。それがタマシャモとの出合いさ。県が種を守り、おれたちが育てる。半世紀二人三脚でやってきた」

 県が種を守り、農家が育てる。――和馬はその言葉を噛んだ。よそに種を握られ毎年買わされる、あのF1とは逆だ。県が種を握るのは、奪うためじゃない。この土地の一羽を、よそへ流さず土地の内側で守り育てるための握りだった。同じ「種を握る手」でも、街から吸い上げる手と、街に留める手がある。守るための握りなら――それは味方だ。

 和馬は鶏舎に見入った。一羽が砂を浴び、羽を震わせている。その動きに飼われているという卑屈さがない。野の鳥のように堂々としていた。

 餌の桶に若い衆が飼料をあける。見るとただの配合ではない。米や地元の野菜くずが混ぜてあった。

「餌もなるべくこの土地のもんでな」戸倉が言った。「鶏は食ったもので味が決まる。よそから買った餌じゃ、よその味にしかならん」

 よそから買った餌じゃ、よその味。――知床の本間が言った、あの首輪の話が、和馬の耳の奥で、また鳴った。木も、種も、羊の餌も、そして鶏の餌も。土地のものを、土地の内側で回すこと。それが味を、そして自分の足で立つ力を、手放さずにいるためのたったひとつの道だった。

 そのとき、丸木が金網に指を突っ込んだ。「蜂の巣も素手で落とす男だぞ。鶏の一羽くらい――」

 言い終わる前に、いちばん大きな雄のシャモが羽を逆立て、矢のように飛びかかった。丸木が素っ頓狂な悲鳴を上げ、尻餅をつく。

「うわあっ! なんだこいつ、蜂より凶暴じゃねえか!」

 原沢が手帳から目も上げずに言った。「丸木さん。シャモはもともと、闘鶏用に改良された品種だ。気性の荒さは折り紙つきだよ」

 どっと笑いが起きた。戸倉まで肩を揺らしている。まさひろが丸木を指さして腹を抱えた。

「……原沢。知ってたなら先に言え」丸木が尻をさすってぶうたれる。

「言ったら、この見物が拝めなかっただろう」原沢が、めずらしく口の端で笑った。

 ところが、尻餅をついたまま、丸木の顔つきが変わった。地面に手をつき、土をひとつまみ、指でこすっている。「……なあ。ここの土、水はけがいい。この湿り気――いい水が湧いてるな。地の底にゃ石灰の岩があるはずだが、水そのものは、硬くねえ。岩盤を長く潜ってきた、角の取れた、やわらかい軟水だ。飲んでうまい水さ」

「よくわかったな」戸倉が目をみはった。「裏の山から引いた湧き水で育ててる。あれがこの鶏を丈夫にするのさ」

「ほら見ろ原沢。おれの目はごまかせねえ」丸木が得意げに胸を張った。尻の泥も払わずに。

「蜂と石にだけはな」原沢がすかさず返す。また笑いが起きた。

 だが和馬は、丸木が拾ったその一言に、胸の奥がざわりとするのを感じていた。石灰質のやわらかい水。――それはこの県の里山の水だ。だがその源は、もっと上にある。石灰の山を抱えた水源地。万能だ。この地鶏を丈夫にする水と同じ水が、万能の岩盤の底には、もっと豊かに眠っているはずだった。丸木のあの水と石を見抜く目が、いつかその源を探り当てる予感がかすかにした。だがそれが何を生むのかは、まだ誰にも見えていなかった。

「よそにない鶏を作る」戸倉がぽつりと言った。「その一心でやってきた。名古屋にも秋田にも負けん、この土地だけの一羽をな。効率を追えばとうに潰れてた。それでも味は、譲らなかった」

 昼、戸倉はその鶏を焼いてくれた。味つけは塩と胡椒だけ。

 和馬は一切れを口に運んだ。

 歯が、押し返される。締まった確かな歯応え。噛むほどに脂の甘さと濃い旨味がにじみ、それでいて鶏特有の癖はまるでない。

「うまい……!」まさひろが唸った。シスコも、目を丸くして頷いている。

「これは……鶏じゃない。肉だ」原沢が、めずらしく箸を止めて言った。数字ばかり追う男が、その一切れの前で、言葉を失っていた。

「普通の鶏は五十日で出す」戸倉は静かに言った。「うちのはその三倍以上――百八十日かける。放し飼いでじっくりとな。手間も暇も餌代も、みんな三倍だ。効率だけ見りゃ、馬鹿げてる。だが味は嘘をつかねえ」

 効率より味。我が街のあの諦めた課の空気とは、正反対の言葉だった。眠っていたのは山や農地だけではない。この一羽もまた、足元で誰にも知られず静かに光を待っていた。

 加藤がもう一切れを噛みしめている。その目が潤んでいた。うちの街でも、これを――そう言いかけて口をつぐんだ。育て方も、売り方も、まだ何ひとつ決まっていない。

 だが、戸倉の顔は晴れなかった。

「兄さんら、この鶏で街を興すってのかい」戸倉は鶏舎を見た。「言っとくが、甘くねえぞ。おれは半世紀、この味一本でやってきた。それでも県で唯一のまま、農家は二戸きり。処理してくれる場所も、置いてくれる店も、数えるほどだ。誰一人広げられなかった」

 戸倉は鶏舎の柱に、そっと手を置いた。「跡を継ぐ者もいねえ。おれが倒れりゃ、この味は県から一つ消える。幻は幻のまま消えちまうのさ」

 その声に、諦めはなかった。ただ静かな悔しさがあった。

 和馬の胸に、吉野の杣田のあの帯鋸がよみがえった。倅は二人とも街を出た。この種の知恵は、俺と一緒に消える――。ここでも同じだった。守り手が、最後の一人になっている。継ぐはずだった若い手は、みんな街を出た。この土地の宝を一つ、また一つと取りこぼしてきたのは、和馬のように、足元を捨てて出ていった者たちだった。戸倉の悔しさは、そのまま和馬の古傷を静かに押した。

「なぜです。これほどうまいのに」

「うまい地鶏なんぞ、全国に掃いて捨てるほどあるからさ」戸倉は苦く笑った。「秋田も名古屋も、名の通った名鶏がひしめいてる。味だけじゃ、この幻は幻のまま埋もれる。ただ育てて、うまいうまいと言うだけじゃ、勝てねえのさ」

 競争の壁だった。

 原沢が静かに頷き、ゆきが腕を組む。輝いていた加藤の顔が、みるみる曇っていった。

 しかも、と原沢が低く言い添えた。あの家畜の条例は鶏にもかかる。川上の堰は、羊だけでなくこの鶏の道までふさいでいる。

「餌で差をつけるか」まさひろが唸った。「知床の羊みたいに、土地のもんを食わせて」

「それだけじゃ弱い」ゆきが首を振る。「どこの地鶏も餌にはこだわってる。もっと誰も真似できん一点が要る」

 沈黙が落ちた。名鶏は揃った。だが、それをたった一羽に変える、最後の一手が見つからない。

 安さでは勝てない。味だけでも勝てない。高野が言ったあの言葉が、和馬の頭をよぎった。安いほうやのうて、ええほうでいちばんを取る。これやないとあかんと言わせる。――この幻の一羽を、世界にただ一羽の奪えない味に変える、その決め手が要る。足元の宝を掘り当てた。だが掘り当てただけでは光らない。もう一手――決め手が要る。それが何なのか。帰りの車のなかで、誰も口を開かなかった。

 その夜。鎮守の森の、朝市の跡地。和馬は一人考えあぐねていた。

「しけた面は相変わらずだな」

 毛糸の帽子の老人が、いつのまにか隣にいた。小鹿野の爺だ。

「爺さん。地鶏を見つけました。うちの県の幻の地鶏を。でもそれだけじゃ――」

「勝てねえ。だろ」爺が言葉を引き取った。「鶏はな、鶏だけじゃ勝負にならねえ。どんな名鶏も裸のままじゃ、他の名鶏に埋もれる。要るのはその一羽を、たった一羽に変える隠し味さ」

「隠し味……」

「南だ。日向(ひゅうが)へ飛べ」爺は、暗い空の南を顎でしゃくった。「あったかい海辺に、名も知られちゃいねえ小さな柑橘がある。それで鮨を握る、豪儀な男もいる。その香りを、知ってこい。――泡にも白にも寄り添う、爽やかな一手だ」

「なぜそんな隅っこに」

「わからんか」爺は和馬を見た。「その地鶏も、あのスイッチバックも、みんな同じさ。一見、値打ちのねえもん、誰も見向きもせんもんの中にこそ、本物の切り札は隠れてる。灯台の下と、南の隅っこにな。探しに行く者だけがそれを掘り当てる」

 日向。和馬はその柑橘の名を、まだ知らない。だが伝書鳩は、また行き先を確かに指していた。

 鶏の壁のその向こうへ。和馬の胸に、南の潮の匂いがかすかに差してきた。

 振り返ると、鎮守の森の闇の奥で朝市ののぼりが風に揺れていた。下から芽吹いた、万能ファームの芽。この幻の地鶏をあの市民の手で育て、たった一羽に変える。そのための最後の一片を南へ探しに行く。

 和馬は夜気を、深く吸い込んだ。

(14話 了)

 

次回予告 第15話「日向へ」

 足元の幻の地鶏に、決定的な一手を。爺が指したのは、あたたかい南の海辺――日向。名も知られぬ香酸柑橘と、それで握る白身の鮨を出す、豪快な大将が待つ。紅金の泡と白に寄り添い、幻の地鶏を"たった一羽"に変える、爽やかな隠し味。チーム万能の食の探求は、南国で、思わぬ切り札に出会う。

 

AI音声解説

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著者

野口 和彦

野口 和彦

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飯能市

肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
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