2026/7/27

「宮崎? 今度は南国リゾートかい」
桑原課長が和馬の有給届を指で弾いた。「役所の若いのが、季節ごとに旅か。いい身分だねえ。言っとくがこの街はそんな悠長な場所じゃないよ」
和馬は頭を下げて席を立った。諦めの声に、もういちいち傷つかない。地鶏に足りない、最後の一手。その在り処を、爺は南の海辺だと言った。それだけが、今日の羅針盤だった。
地域を興すはずの課で、誰も地域を信じていない。だが今日もその課の名刺が、南への扉を開けてくれる。皮肉なものだと、和馬は思った。
宮崎の空は、抜けるように青かった。五月の終わり。飛行機を降りると、南の陽がじりっと肌を刺した。潮の匂いが濃い。野辺山の凍てついた高原も、知床の鉛色の海も、もう遠い夢のようだった。同じ国とは思えないほど、あたたかい光が街に満ちている。
「あぁー!生き返るなぁぁ!」
まさひろが大きく伸びをした。丸木も上着を脱いで、陽を浴びている。長い旅の疲れがその光にほどけていくようだった。
加藤が両手を広げ深く息を吸った。「土も、光も、こんなにやわらかい。ここの人たちは、きっと体で季節を知ってるのね」ヨガで鍛えた背筋が、南の陽の下ですっと伸びる。よそから来てその土地の呼吸を誰より深く吸い込む人だった。
空港からほど近い海辺にその島はあった。青島。周囲を、奇妙な岩がぐるりと囲んでいる。波が気の遠くなる歳月をかけて削った、洗濯板のような岩の畝。鬼の洗濯板、と呼ぶらしい。潮の引いたその岩を渡ると、亜熱帯の緑に覆われた小島の奥に、朱塗りの社がひっそりと鎮まっていた。
「せっかくだからお参りしていこうよ」シスコが言った。「ここ、縁結びで有名なんだって」
一行は拝殿の前に並び、手を合わせた。海の神の娘と結ばれた、山の神の物語がこの社には眠っているという。山の幸と海の幸を、一本に結ぶ縁の社。和馬は目を閉じたまま、旅の日々を思った。吉野の木。余市の葡萄。知床の羊。野辺山の陽。足元の地鶏。そしてこの南の柑橘。ばらばらの、名もなき宝たち。それを一枚の絵に結んできたのは、結局、縁だった。この宴は、縁を結ぶ事業なのだ――そう、すとんと腑に落ちた。
目を開けると、社の奥で、白い衣の巫女が、しずかに舞っていた。その姿に、和馬の胸がふいにざわついた。
土に手をかざし、野菜の声を聴いたあの人。藤原杏。表で川上と握手し、裏で機関を動かす、底の見えない女。――あなたが通ろうとしている水路はその人が命を落とした水路です。参道で聞いた低い声が、南の潮騒に混じって、よみがえる。
味方なのか、敵なのか。連絡将校を、事故に見せかけて消したのは、誰なのか。旅のあいだ遠ざかっていた影がこの神さびた島で、ふいに背筋を撫でた。
和馬はもう一度、手を合わせた。この旅の無事を。そしてまだ見えぬ水路のその先の安全を。
鬼の洗濯板の島をあとに、一行は北へ向かった。日向市。空港から、一時間半あまり。港のそば、細島の高台にその鮨屋はあった。暖簾の脇に、青い葉を茂らせた柑橘の鉢がずらりと並んでいる。
「万能から来た、ご一行さんかい!」
のれんを割って出てきたのは、陽に灼けた大柄な男だった。丸太のような腕に、鮨屋の白衣。その目が子どものように笑っている。
「鈴木っちゃ。鮨も握るし、畑もやる。まあ座らんね。長旅で腹も減っちょるろ」
「はじめまして。万能市役所、地域振興課の大森和馬と申します。本日は――」
「あーまた始まった」シスコが笑って和馬の袖を引いた。「大将、ごめんね。この人、律儀な役人でね。どこ行っても、まず名刺から入るの」
「かたっ苦しいのは、なしなし」まさひろが手を振る。丸木が「南国まで来て、役所の顔しなさんな」と混ぜっ返した。
「はっはっは! ええ若いのじゃ」鈴木の大将が丸太のような腕で和馬の背をばしんと叩いた。「役所の兄さんが、頭下げて宝を探しに来た。それだけで、おれはあんたを気に入ったっちゃ。さ、まずは畑を見らんね」
鈴木の大将はまず一行を裏の畑へ連れ出した。斜面いっぱいに、柑橘の木が並んでいる。数えきれない。緑の葉のあいだに、花を終えたばかりの、まだごく小さな青い実が覗いていた。
「へべす、っちゅう柑橘さ」鈴木の大将が一枝を撫でた。「知っちょるか。まあ、知らんろな。すだちでも、かぼすでもねえ。この日向にしかねえ柑橘っちゃ」
「ここにしか」和馬は小さな青い実を見た。
「今はまだ、花が終わって実をつけたばっかりでな。旬は夏の終わりから秋さ」鈴木の大将は笑った。「じゃっどんへべすは秋に採って、丸ごと冷凍しちょくと。そうすりゃ、一年じゅう、採れたてと変わらん香りが使えるっちゃ。今日あんたらに出すのも、去年の秋の宝よ」
「腐りやすいのが、正直な果実の証さ」鈴木の大将は青い実をそっと撫でた。「じゃっどん兄さん、店に並んどる、あの安い輸入の柑橘な。地球の裏から船で何週間も揺られて来るのに、傷ひとつ腐りもせん。おかしいと思わんか」
「言われてみれば」和馬は小さな青い実を見た。
「収穫したあとに、腐らんための薬をたっぷり浴びせちょるんさ。防カビ剤っちゅうてな。皮にしみ込ませて、何ヶ月でも腐らんようにする」鈴木の大将の声が低くなった。「安うて、腐らん。見てくれもええ。うちら正直に育てた国産は、値でも日持ちでも勝てん。じゃっどん――あの腐らん柑橘を、あんたは、子どもに搾ってやりたいか」
和馬は答えなかった。
また、あの波だ、と思った。吉野の安い外材。源蔵の、よそに握られたF1の種。知床の、海を渡ってくる飼料、そして安価なワイン…。そして今、この南の果てでも――地球の裏から、安く腐りもせず運ばれてくる柑橘が、正直な畑をじわじわ追いつめている。木も、種も、餌も、果実も。同じひとつの大きな流れが、この国じゅうの"正直"を、値段で殴り倒そうとしていた。その波の本当の大きさは、まだ和馬には掴めない。ただ、行く先々で必ず顔を出す、その不気味な同じ影だけが、腹の底に、また一つ重く沈んだ。
「昔むかし、平兵衛さんっちゅう爺さんが、山ん中で自生しちょるのを見つけてな」鈴木の大将は続けた。「庭で育てて、苗を近所に配った。それが広まったんさ。この土地じゃ、娘が嫁に行くとき、へべすの苗を一本持たせる習わしがあってな。嫁ぎ先で、料理にそっと搾る。すると、なんちゃない飯が、ぐっとうまくなる。あの嫁は料理上手じゃ、っちゅうて評判が上がる」
「隠し味、ですか」
「そうっちゃ」鈴木の大将の目が光った。「表には出ん。名前も知られちょらん。すだちや、かぼすに、名前じゃ負けた。じゃっどん――味で負けた気はいっぺんもねえ」
名は知られず、しかし確かな値打ちを隠し持つ。無名の柑橘。和馬の胸が鳴った。野渕の種。幻の地鶏。そして奥に眠るこの街の山々。みんな同じだ。名を知られぬまま、値打ちだけを抱いている。
「じゃっどん無名にゃ無名の、強みもあるっちゃ」鈴木の大将が続けた。「どこにでもある柚子じゃ、驚きはせん。誰も知らんもんが出てきて、うまかったとき――人はいちばん、たまげるとよ」
鈴木の大将はもとは東京の鮨屋で修業した男だった。だが故郷の親父が倒れ、荒れかけたへべす畑を継ぐために、日向へ戻った。「鮨だけなら、東京のほうが、よっぽど儲かる」鈴木の大将は笑った。「じゃっどんこの畑とこの海の魚をいちばんうまく食わせられるのは、ここしかねえっちゃ。おれはそれをやりたかった」
都会を捨てて、故郷の宝を継いだ男。和馬はその背にいくつもの顔を重ねて見た。
鮨屋の檜のカウンター。鈴木の大将が白身の魚をするりと引いた。握った鮨に、刷毛で薄緑の何かをひと塗りする。塩でも、醤油でもない。それから大将は、冷凍庫から出したへべすを半分に割り、鮨の真上できゅっと搾った。弾けた果汁が、数滴、白身の上できらりと光る。
「へべす胡椒を塗って、仕上げに、生のへべすをひと搾り」鈴木の大将が皿をすっと出した。「胡椒で、寝かせた香りを。生で、弾ける酸を。二段仕込みっちゃ。まあ、食うてみらんね」
和馬は一貫を口に運んだ。ふわり、と鼻の奥へ、爽やかな香りが抜けた。柚子ほど強くない。すだちほど尖ってもいない。まろやかで優しい果汁に、ピリッと唐辛子とへべすの皮の風味と塩味が爽やかで、白身の淡い甘みをその香りがふっと持ち上げる。脂も、くどさも、すっと切れていく。
「軽い……」和馬は思わず呟いた。「泡や、白のワインに、こういうのが欲しかった」
「わかっちょるね、兄さん」鈴木の大将がにっと笑った。「へべすは酒とも仲がええ。焼酎でも、泡の酒でも、すっと寄り添う。重い赤にゃ濃い肉。軽い泡にゃこの爽やかさっちゃ」
赤に、羊。泡と白に、へべすの白身。宴の卓の空いていた片側がいま埋まった。
その一貫を、ゆきと、加藤と、シスコがほとんど同時に口へ運んだ。次の瞬間だった。三人の目が、まんまるに見開かれ、きらきらと光る。互いの顔を、はっと見合わせた。口はいっぱいで、言葉にならない。かわりに三人そろって、鼻の奥から、こらえきれない音が漏れた。
「ん――!!ふ―― んっ!!」
声にならない、美味しい。目と目で、うんうん、と何度も頷き合う。あの醒めた金庫番のゆきまでが、目を輝かせて、鼻を鳴らしていた。
ようやく飲み込んで、シスコがほうっと息をついた。「これ……女性がぜったい好きなやつ。写真映えもする。ママ友の間で、火がつくよ」
鈴木の大将は続けて七輪に火を熾した。網にのせたのは、地鶏だった。宮崎の炭火焼き。焦げ目のついた黒い肉に、鈴木の大将はへべすを惜しげもなく搾りかけた。
「肉には、なんでも合う。特に、地鶏っちゃ」
和馬はその一切れを頬張った。香りが脂を洗う。地鶏の力強い旨味だけがくっきりと際立った。それでいて後口は爽やかに切れる。ただの炭火焼きが、へべす一搾りでまるで別の一皿に変わっていた。
和馬の頭のなかで、二つの"無名"が、かちりと噛み合った。うちの県の、幻の地鶏。日向の、無名の柑橘。どちらも名は知られていない。だが誰も知らぬもの同士を掛け合わせたら――。
「これだ」和馬は鈴木の大将を見た。「うちの街に、県で唯一の幻の地鶏がいます。うまいのに、無名で埋もれてる。それにこのへべすを合わせたら」
「よそに真似できん一皿に、なるっちゃ」鈴木の大将が引き取った。「名の通ったブランドは、どこも持っちょる。じゃっどん無名と無名の掛け算だけは――あんたらにしか、できん」
競争の海で埋もれるはずの地鶏が、無名の相棒を得てたった一羽に変わる。戸倉の顔が、和馬の脳裏をよぎった。あの半世紀の味に、ようやく翼が生えた気がした。
名を知られぬことは、負けではない。掛け合わせる相手さえ見つければそれは、誰にも真似のできない切り札になる。街も、同じだ。この街の、奥に眠る山も、幻の地鶏も、名を知られぬまま、翼を待っていた。
鈴木の大将がへべすサワーを人数分、作りはじめた。へべすを搾り、焼酎と炭酸で割る。
「この地鶏にゃこのサワーも、たまらんぞ。まあ、やってみらんね」
丸木、原沢、まさひろの三人が、待ってましたと地鶏を頬張った。次の瞬間、三人の顔が、ぴたりと止まる。目を見合わせ、さっきの女性陣とそっくりに、鼻の奥から「ん――!!ふ―― んっ!!」と唸って、じっくり味わった。そして示し合わせたように、へべすサワーのグラスを、かちりと合わせる。
グビリ、グビリ。
「プハァーーー! ……最高じゃねえか!!」まさひろが腕で口をぬぐって吠えた。
「ちょっと! あたしらの真似して、台無しにしないでよ!」シスコがすかさず突っ込む。
どっと、大笑いが起きた。鈴木の大将まで、腹を抱えている。南の宴は、すっかり賑やかになった。
「兄さん。あんたの街の話、面白いっちゃな」
へべすサワーを豪快に呷って、鈴木の大将が言った。となりで丸木が同じサワーを、もう三杯空けている。
「丸木さん。それ、四杯目だぞ」原沢が手帳から目も上げずに言った。「へべすは、必須アミノ酸が豊富だそうだ。二日酔いに効くらしい。四杯ぶんも要るかは、知らんが」
「うるせえ。うまいんだからしょうがねえだろ」丸木が赤い顔で胸を張る。また笑いが起きた。
「体にええんは、ほんとっちゃ」鈴木の大将が笑って頷いた。「へべすは、香りだけじゃねえ。体の掃除もする。悩まん体を作る果実さ」
悩まない体。和馬はその言葉をそっと胸にしまった。いつか作りたいあの学校の、ひとかけらが、こんな南の果てにもあった。
「うちのへべすを、あんたらの地鶏に添えてみらんね」鈴木の大将が盃を置いた。「無名同士で、化けるかもしれん。宴をやるときゃ、呼べ。おれが握りに行くっちゃ」
旅先の達人がまた一人、いつか万能へ来る約束を結んだ。余市の杉山夫婦。野辺山のユウ。そして日向の鈴木の大将。街に着く前から、応援団は、日本じゅうに、増えていた。
その夜。宿の縁側で、和馬は南の星を見上げていた。隣で原沢が携帯の画面を伏せ、ぽつりと言った。県の基本計画は、まだ入口で止まったまま。川上の閂は、動かない。堰は、なお高い。
だが和馬の手のなかで、絵はもうほとんど完成していた。石灰の赤。潮風の羊。日陰の牧場。足元の幻の地鶏。そしてそれを一羽に変える、南の隠し味。ばらばらだった線は、一枚の設計図に束ねられた。
紅金を軸にした、美食の郷。誰も真似できない、無名の宝ばかりを集めた宴。それはただの商売ではなかった。お金に追われず、体をいたわり、人と人が食卓で繋がる――和馬がこの街に根づかせたい暮らしのいちばん美しい入り口だった。
あとはこの絵を土に根づかせるだけだ。旅は、もうじゅうぶんに宝を集めた。次は、持ち帰った葡萄の苗をあの石灰の斜面に植えるときだった。眠った土が、本当に赤い実をつけるのか。設計図が、いのちに変わる、最初の一歩。
和馬は南の潮風を深く吸い込んだ。その風の先に、もう故郷の山が見えている気がした。
(15話 了)
次回予告 第16話「紅金、芽吹く」
旅の欠片は、すべて揃った。赤の泡、羊、幻の地鶏、南の隠し味。あとは、この手で土に根づかせるだけ。チーム万能は万能へ帰り、余市仕込みの葡萄の苗を、石灰の斜面へ植える。だが、川上の堰は、まだ高い。眠った土は、本当に、燃えるように赤い一房を実らせるのか。設計図が、いのちに変わる。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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